東晶(ひがししょう)共和国を構成する二つの州の境目に位置する町、杵柄(きねづか)町を間近に控えた町外れの街道上で、灰人(かいと)はふと片腕を上げて、自分が率いる一団の動きを制止する仕草を見せた。
「誰か、一足先に杵柄町に入って、内情を偵察して来てくれないか? ここまでの旅程では特に問題は生じていないが、野平(のひら)町で遭遇したあの…源蔵(げんぞう)とか言う東辺(とうべ)町の治安部隊の様子を見れば、何らかの手が打たれている可能性を疑って掛かるべきだろう」
「あの時は、まさか、源蔵の奴が隣町にまで出張して来るとは、思いもよりませんでしたからね」
「そういう事だ。普段は、治安部隊が管轄外の事件に関与するなど、あり得る筈がない。その為にこそ、治安部隊が各町に詰所を構えているのだからな。…にも拘らず、隣町で発生した事件にまで首を突っ込んで来た事を考えると、治安部隊内に只ならぬ動きがあるのかもしれない」
「…ただならぬ動き、ですか?」
「うむ。それでなくとも、杵柄町は州境の町というだけで、他の町と比べると段違いに警戒が厳重なのだから、臆病なくらいに慎重でちょうどいいという訳だ」
「そういえば、灰人さんはこの町は二回目ですからね。それで、何を偵察してきましょうか?」
「主に、治安部隊の動向と関所の様子という事になるが…。第一に、ボク達に対する捜索の手が伸びているかどうか。次に、街中の警戒の程度だ。聞く所によれば、隣の震(しん)州では、南に隣接する巽(そん)州から日毎国境を越えて来る連中の対応に追われていて、特に巽州との国境付近では治安が悪化しているという。何れボク達の盟友になるだろう、向こう側の大将共が暴れ回っているという訳だ。杵柄町からだと多少距離はあるが、州境であり交通の要衝であるという地勢条件も考えれば、治安部隊による警戒の強化は当然予想される展開ではあるがな」
「分かりました」
「もし可能であれば、杵柄町内外で最近発生した事件・事故に関する情報も仕入れて貰いたい。意外とそういう所に、今後の展開を左右しかねない重要なキーワードが含まれているものだ」
「はい。では、少々お待ちを…」
そう言葉を残して、集団から一騎の駝(だ)が離脱し、そのまま街道を突き進んで街中の方角へ消えていく。それを見守る余裕も見せずに、十騎を越える駝と一騎の荷車からなるちょっとした大部隊の一行は街道を外れて、一面を覆う田畑の合間を縦横に細々と続く側道へと場所を移した。
今や、治安部隊からも追跡の手が伸びている事が確定的となった彼らにとっては、傍目に付く行為が最も危ぶまれる。
それ故、まだ日の高い時刻に町外れの街道を塞ぐ駝の大集団は、周囲で農作業に明け暮れる住民にも、街道を行き交う旅行者からも目立って見える為、一旦脇道に逸れたのだ。
この大集団を、周囲にいる全ての者の視界から覆い隠す事は不可能ではあったが、街道を行き交う人々の視界には触れにくい程度まで街道から遠ざかってから、灰人はおもむろに言葉を継いだ。
「斥候が戻って来るまでの間に、杵柄町での予定を大まかに話しておこう。まず、この町でやるべき事は二つある。皆も知っての通り、この町を離れたらいよいよ南下して国境越えとなる。そこで、まずは国境越えと、その後に備えた物資の調達をしたい。もう一つは、多分今頃ボク達の後を追っているであろう、明日見(あすみ)クンの捕獲だ。幾ら杵柄町が交通の要衝で旅行者の数が多いといっても、これだけの数の駝の集団で移動しては少々目立ち過ぎる。そこで、物資調達班と明日見捕獲班の二手に分けて、物資調達班には先に関所を越えてもらおうと思うが、何か意見のある者は?」
「灰人さん。明日見の捕獲は、是非俺にやらせて下さい…」
これまでに散々味わわされた屈辱の記憶が蘇って来たのか、顔中に醜く皺を刻んで歪んだ表情の曽頓(そとん)が、やや俯き加減のまま小さく呟いた。
一方、曽頓の在り様に冷ややかな視線を投げつける灰人は、そこまで明日見に拘る曽頓の心情が理解出来ぬといった、どこか異界の未熟な生命に向けた嘲りの様なものを浮かべている。
曽頓が明日見に拘っている理由は、灰人にとっては無意味かつ無価値と切って捨てる程度の、全く取るに足らないものだったからだ。
「フッ、そう言うだろうとは予想していたが、曽頓クンは、もう何度も明日見クンに返り討ちに遭っているのだから、これ以上の度重なる失敗だけは避けてもらいたいものだ」
灰人の、一見物腰柔らかくはあるが、言葉の奥に密かに毒を含ませた物言いに、曽頓は何も言葉を返せずに口篭った。
それは曽頓の醜く歪んだ顔面を、更に紅潮させるのに充分な刺激ではあったが、灰人の発する全ての言葉が紛れもない事実であり、また、心のどこかで『灰人さんにはかなわねぇ…』という、曽頓自身の灰人に対する苦手意識の様なものも燻っていたから、ただ奥歯を噛み締めて沈黙を保つ位しか出来なかったのだ。
そして、この居た堪れない屈辱を晴らす為に、今度こそ明日見を自分自身の手で捕獲するしかない…それが、曽頓の明日見に対する拘りであった。
「わかりました。この次こそは絶対に明日見を捕まえて見せます…」
曽頓は相変わらず小さく俯きながら、辛うじてそれだけの言葉を吐き出した。
一方の灰人は、こちらも相変わらず、曽頓の細かい心の動きなどには一向に頓着する気配も見せない。
「まあ、その為にわざわざ手の掛かる人質を帯同しているのだから、曽頓クンが一人で思い詰めて気負う必要もあるまい。むしろ、そういった君の下らん感情に流されて独断専行するとか、いざという時に判断を誤るといった愚行だけは避けてもらいたいのだがね」
「…」
自分は生まれ付き短気であり、自分の気に入らない事があると、後先も考えずに憤ってしまう…そういった自分自身の性格的な弱点は、曽頓自身も薄々気にしていない訳ではなかった。
しかし、他人からあからさまに指摘されるのは屈辱以外の何物でもなかったし、その相手が苦手意識を持つ灰人では、いつもの様に暴れてストレス発散…という訳にもいかない。
一方の灰人は、発火点が低いが故に暴発し易い、自分の感情の爆発にひたすら耐えている曽頓に対する興味はもう無くした…とばかりに、曽頓から視線を外して話を続ける。
「まあよい。他には、特に誰も意見がなければ、人選はボクに任せてもらう。物資調達班には、商業目的の通行証を用意してあるから、一足先に関所を越えて貰いたい」
灰人から四人のならず者の名が順に呼ばれ、それぞれが通行証を手渡された。
もちろん、事前に灰人が裏のルートから仕入れておいた、精巧な偽造品だ。
「キミ達は、関所で身分証の提示を求められたら、それを見せればよい。偽造品ではあるが、腕のいい細工師に依頼したのだから、そう簡単に偽物とは見破られまい。まず、関所の向こう側へ渡って、向こう側での活動拠点を確保してくれ。調達するべき物資のリストは、調達資金と共に追って届けさせよう。それから、明日見捕獲班は、いつ明日見クンがこの町に辿り着いても、こちらから先手を打って対処出来る様に、当面は町の内外での監視に当たって貰う。それと平行して、ボクを中心とした二〜三人で、明日見捕獲作戦を練っておく」
灰人の言葉に、集団の全員が無言で頷くと、続けて灰人が唐突に切り出した。
「ところで…」
そして、一団の最後尾に付き従っている荷車の方に視線を向ける。
「人質の状態はどうなのだ? さすがにあの子供では、明日見クン同様に手荒に扱っては体が持たないだろうが…」
「待って下さい。俺が見ます」
ちょうど荷車から一番近い位置で、他のならず者同様、駝に跨ったまま灰人の言葉に集中していた呆六(ほうろく)が、少々ぎこちない手綱捌きで駝を操って、荷車の後ろ側へ回り込む。
幌の布を乱雑に捲り上げると、薄暗い荷車の中には、明日見を誘き寄せるのに打ってつけの幼い人質が、両手を後ろ手に縛られた状態で転がされていた。
逢蘭(ほうらん)だった。
以前、明日見を拘束した時には、両手両足を椅子に縛り付けるという厳重さであったが、その時と比べれば随分丁寧な扱いといって良かった。
今にもポッキリと折れてしまいそうな両手首こそ後ろ手に縛られていたが、足は自由を保ったままであり、また、荷車の走行時の衝撃を和らげる為のクッションまで用意されている。
そうして、囚われの虜囚というには少々丁重な位の扱いを受けていたのも、逢蘭自体の細く小柄な体つき故の対応だった。
せっかく手中にした大切な人質を、手荒に扱って生命の危機にでも晒そうものなら、ただ単に余計な手間が掛かるというだけでなく、明日見を誘き寄せる為の大事な手札としての役割も果たせなくなってしまいかねない。
見るからに小枝の様に痩せこけた華奢な逢蘭の体は、幾ら明日見を捕獲する為の切り札になり得るとしても、旅路を急ぐならず者共にとっては、非常に手間のかかる厄介な存在でもあった。
しかし、あの時逢蘭と共に捕らえた二人の幼児をそのまま連れ回していたら…と考えれば、逢蘭一人の方が遥かに扱い易かったといって良い。
見るからに小柄で幼げな少女ではあっても、物事の分別を弁え、自分の置かれた状況をある程度正確に理解出来る年齢には達していたからだ。
逢蘭は基本的に終始俯いて黙りこくったまま、ならず者達の言われるがままの指示に従っていた。
更に追い討ちをかける様に、灰人達が明日見の元から逃れて杵柄町へと先を急ぐ旅路の途中、最初の休憩の時に、『キミの住処は知っているのだから、例えボク達の目を盗んで逃走しても、すぐに連れ戻せる。もし、キミがどこかへ紛れ込んで見つからなくなったら、あの幼いキミの弟達がどうなっても、私は知らないがね…クククッ』と、灰人が逢蘭に向かって不気味な薄ら笑いを浮かべていたから、逢蘭は『ならず者達の手から逃れる』可能性など、微塵も思い浮かべてはいなかった。
それ以前に、小柄で体力も無いちっぽけな自分が、どんなにあの恐ろしい大男達に逆らおうとしても無駄に思えたし、例え運よく逃げられたとしても、すぐに再び捕らえられ、今度こそとても耐え切れない様な辛く痛い折檻を加えられそうな気がしたからだ。
最初から出来もしない無理をして、失敗するべくして失敗して嫌な思いをするならば、彼らの言う言葉に大人しく従っている方がまだマシだ。
少なくとも、これまでは手首を縛られていたり、昼間の時間の殆どを薄暗い荷車に揺られていたけれども、それ以外に自分の身に危険が及ぶといった経験は無かった。
彼らが痛くしない間は、大人しく黙って言う事に従っていよう。
それが、逢蘭なりにこの一週間程を荷車に揺られて来る中で掴んだ処世術だった。
しかし、突然幌の布が捲り上げられて呆六が覗き込んだ時、逢蘭は突然目の前に差し込んだ日差しの強さと、その向こうから現れた呆六の顔に驚いて、反射的に思わず身を捩って顔を背けたまま、俯いて硬く身を震わせていた。
呆六は、自分の思いに反して嫌がる仕草を見せる逢蘭に、思わず唇を尖らせて何かを言おうとしたが、そのまま再び何も無かったかの様に、そっと幌を閉じる。
「相変わらず黙りこくってますが、別に異状はなさそうです」
「そうか…。見るからにひ弱そうな子供だから、少々気になってはいたのだが、見た目よりは頑丈に出来ているらしい。尤も、明日見クンが追い付いて来るまでは、その娘には無事にいてくれないと困るがね」
フッ…と軽く鼻で笑うと、灰人は再び一団の中心に向き直り、続いて呆六が集団の外れに戻ってくるのを確認してから、話を進める。
「さて、今話した様に、杵柄町は州境故に、関所を隔てて東西に分かれている。それがボク達の行動に大きな制約を課すのは避けられないが、関所の向こうとこちらとで互いの状況が掴めないでは、特に緊急事態が発生した時に困る。そこでだ…呆六クン、キミは確か、幼い頃に杵柄町に暮らしていた事があったと話していたな?」
「はい…」
言葉少なに頷く呆六の脳裏には、今となってはさすがに少々薄れ掛けては来たものの、幼い頃に味わった様々な辛酸の記憶が断片的に蘇りつつあった。
呆六にとっては、いい加減全てを忘れてしまいたいと密かに願い続けて来たそれらの記憶には、未だに呆六の表情を歪ませる位の影響力が残されていた。
「呆六クンには、関所の向こうとこちらの連絡係を担当してもらう。その為に特別に用意した、杵柄町の住民用の身分証だ。これは少々割高な上に希少品だったので、一枚仕入れるのがせいぜいだったのだがね」
呆六が灰人から差し出された身分証を無言のまま受け取ると、灰人は呆六の細かな心情の変化などには一切斟酌せずに話を進める。
「明日見クンの捕獲に向けた準備だけは、こちら側に残る連中だけで進めるつもりだが、実際の作戦ではそちら側に応援を頼む可能性もあるだろうし、そちら側にしても何らかのトラブルに巻き込まれないとは限るまい。そういう時の為にも、関所の向こうとこちら側が互いの状況をある程度把握しておく必要があるだろう。役割の都合上、最も関所を頻繁に往復するのだから、それだけ治安部隊に拘束されるリスクも高くなるが、よろしいかね? 呆六クン」
「…分かりました…灰人さん」
灰人は、呆六が治安部隊に何らかの嫌疑をかけられたり、最悪拘束される可能性を憂慮していた様だが、呆六の冴えない気分の原因は全く別の所にあった。
今となっては、幼い時分にはこの町を離れてしまった呆六の顔を記憶に留めている者も残されてはいないだろうが、仮にその様な奇特な者がいたとしても、杵柄町に留まっている間は何らかの形で利用出来る可能性がある反面、過去に置き忘れて来た忌まわしくもおぞましい記憶の断片を、嫌でも無理やり穿り返されるかもしれないと思うと、呆六の気分は益々重く沈んでいく。
しかし、呆六の個人的な思いはその場に放置して、灰人はなおも淡々と自らのペースに則って話を進めてゆく。
「それから、杵柄町に滞在している間は、幾ら子供とは言っても人質の見張りに人員を割かない訳にはいかないだろう。人質を抱えて関所を往復するリスクはそう何度も味わいたくはないから、当然明日見クンを捕獲するまでの間は、関所のこちら側で人質の面倒を見るより他にあるまい」
「灰人さん、その人質のガキなんですが、明日見を捕獲したら用済みになりますよね? その後の処分はどうされるんです? このまま連れて行くって訳にはいかないし、まさか本当に返すって訳じゃぁ…」
「もし可能ならば、あの爺の所のガキの時の様に、奴隷商人に渡りをつけて売り払っても良いだろう。尤も、あの痩せこけた小枝の様な子供では、売り飛ばしてもそれ程の値が付くとは思えないがね。もし奴隷売買が無理ならば、町外れに放置してもそのまま野垂れ死ぬだけだろうし、口封じの為に自ら手をかけても構うまい。この際何をしようと、国境を一度越えてしまえば、この町の治安部隊には手の出しようが無いのだからな」
そういって灰人が口許を僅かに綻ばせた時、灰人を除いたその場の全ての者の背筋を、冷たく鋭い感覚が駆け上がった。
彼に付き従うならず者の誰もが、『灰人さんには敵わない』と、改めて再認識させられる瞬間だった。