灰人達の一団がちょうど州境の杵柄(きねづか)町に辿り着いた頃、明日見は杵柄町より百里(約五百キロ)程東方の街道上を、未だに扱い慣れたとは言えない駝(だ)を駆って、灰人の後を追っていた。
明日見の携帯地図によると、後二里(約十キロ)も走れば過(か)州第三の都市である葛篭川(つづらがわ)町に到着する筈であったが、先程から明日見の頬を叩く雨粒が次第に激しさを増し、それに伴って駝の足取りも徐々に重くなっていった。
元来南方の乾燥地帯に生息する駝は、雨が余り得意ではないのだ。
『雨に降られたら、無理をしないで近くの屋根の下で駝を休ませてやれ。そうやってこいつの気分を損ねない様に気遣ってやれば、その分だけこいつもお前の指示に従う様になる。駝の扱いはメリハリが肝心だからな』
そういって豪快に笑いながら、明日見に駝の扱い方を丁寧に教授してくれた、野平町の牧場主の親父の言葉が思い出される。
「そうね。こんな所で焦って無理をするよりは、明日頑張ってもらった方がいいのかもね」
既に、走るというよりはトボトボと歩く状態になっていた駝の足を止めて、明日見は街道の両脇に広がる一面の畑の向こうに視線を凝らした。
この辺りは町の中心部からはまだ距離があるとはいえ、一面を覆い尽くす整備された農地の合間に、疎らではあったが家屋が点在する田園地帯でもある。
先程よりも降りが激しくなった雨に煙って、やや視界がぼやけながらも、街道から少し入った所に何軒かの建物が見える。
明日見はその場で一旦駝を降りると、そのまま手綱を引っ張って足取りの重い駝を引き摺る様にして、そこから見える最も近い家に向かって歩き始めた。
その家は農地の中に建っていたが、一般的な農家から見れば随分こじんまりとしていた。
更に近づくに連れて、建物自体の老朽化がかなり進んでいる様に見受けられたが、かといって特に損壊した箇所もなく、全体的には『決して新しくはないが、良く整備が行き届いた小奇麗な家』といった印象を与える。
「誰か、いませんか?」
明日見が扉をノックすると、程なく反応が返ってくる。
「はて、どちらさんでしたかねぇ?」
扉の向こうから姿を現したのは、少々小柄だが適度にふっくらとしていて、見るからに人の良さそうな朗らかな表情を浮かべるお婆さんだった。
年の頃は、東辺町で散々世話になった代峰老師と同年代といった所だろうか。
「私は旅の者なのですが、雨の降りが酷くなってきましたので、雨宿りをさせていただきたいと思って…」
「あらら。そういえば、あなた、全身がびしょ濡れじゃないですか。すぐに何か着替えを用意するから、さっさと上がりなさい」
「ありがとうございます。それから、駝の為に屋根をお借りできればありがたいのですが…」
明日見が振り返って視線を促すと、全身の羽毛をすっかりずぶ濡れにした一羽の駝が、心なしか体を震わせながら雨粒の降り注ぐ軒先に佇んでいた。
「おぉ、これは可哀想に。旅行者ならば、駝を連れていても当たり前ね。それならば、この家の裏側にある物置小屋を使うといい。駝が雨を凌ぐ位なら問題ないでしょう。今は鍵も掛けていないから、早速連れて行ってお上げなさいな。その間に私はあなたの着替えと、温かい飲み物でも用意しておきましょう」
「ありがとうございます」
頭を下げて礼を言う明日見の姿を振り返りもせずに、老婆はそそくさと部屋の奥に消えていた。
ちょっとせっかちな人なのかしら…明日見は一瞬笑みを浮かべると、再び雨の中を駝の手綱を引っ張って母屋の裏手に回る。
そこには、母屋よりも更に一回り小さな、それこそ駝が一羽入っただけでも少々窮屈かも…と思わせる程度の、こじんまりとした木造の物置小屋が頼りなさ気に寄り添っていた。
鍵も掛けていない扉の建付けは少々悪かったが、小屋の中には確かに何も入っておらず、適度に埃も払われて清掃されている様だった。
明日見はとりあえず駝の手綱を小屋の柱に縛り付けると、傍らに立て掛けてあった桶を手に外へ出る。
そして、母屋の庭先に掘られていた井戸で水を汲むと、再び雨の中を物置小屋へ駆け戻った。
「後で何か食べ物を持ってくるから、今は水だけで我慢していなさい」
そういい残して小屋の扉を閉じる明日見に向かって、駝が全身を震わせて雨の飛沫を飛ばし、ただでさえ全身ずぶ濡れの明日見の顔に雨雫の洗礼が浴びせかけられる。
…全く、こちらだってずぶ濡れだというのに。
一人口篭りながら、明日見が再び母屋に回って扉を空けた時には、既に老婆の方は受け入れ準備完了…といった様子で手拭いを抱えて入り口付近に待ち伏せていた。
「さあ、とりあえずこの手拭いで雨粒を拭ったら、この服に着替えるといい。きっと体も冷えただろうから、その間に温かい飲み物でも用意しておくからね」
「ありがとうございます」
終始手回しの良い老婆のペースに急き立てられる様に、明日見は隣室で手早く雨粒を拭い、予めあてがわれた着物に袖を通している間に、鼻腔を心地好く刺激する香りが微かに漂ってくる。
「何だかとても良い香り…」
余りセンスがいいとはいえない、明日見にとっては少々短めの着物を身に纏って、やはり大量の雨 水を吸って雫を滴らせていた布袋から荷物を出して整理しながら、それでも隣室から漂ってくる魅力的な芳香には逆らう事が出来そうにない。
「さぁ、そんな片付け物は私が後でやっておいてあげるから、早くこちらへおいでなさい」
そういって明日見を急かす老婆に、床の上に広げたままの荷物が気になりながらも隣室へ入ると、使い込まれて鈍く黒光りした卓の上に、何の変哲もない茶碗に注がれて仄かに湯気を立てている飲み物が、今や遅しと明日見の到着を待ち受けていた。
これまでに嗅いだ事のない、明日見の味覚と嗅覚を適度に刺激する魅惑的な芳香に誘われて、自然と手が目の前の器に伸びる。
「頂きます…これは、普通のお茶…ではないですよね?」
「いい香りだろう? これは私の特製香草茶さ。体に溜まった疲れを癒して、心から冷え切った体を温めてくれるよ。気に入ってもらえたら、お代わりはあるから遠慮せずに飲んでおくれ」
香草というのは、花や葉から人にとって心地好い香りを発し、またその香りが人の精神状態に良い影響を及ぼすという薬草の一種である。
明日見もかつては、不似(ふじ)の山の中腹にある『天元堂』で、薬草に関する初歩的な知識を習得した経験があったから、香草自体を知らない訳ではなかったが、その薬効はともかくとしても、高価で希少価値が高いといわれる香草を、惜しげもなくお茶に入れてしまうとは、少々驚きであった。
しかし、先程から器の上で心地好い湯気を立てつつ仄かな芳香を撒き散らし、また、一度口にすると普通のお茶とは一味変わった滑らかな舌触りと、口内から鼻へ抜ける仄かな香りが明日見の欲求を刺激し、ついついもう一口と口元に運んでしまう。
…あぁ、いい香りが全身に染み渡っていくのが分かる。
明日見は、しばし口の中で香草の芳しい香りが広がる感覚を味わう様に、茶の湯を舌でコロコロと転がしてから、その香りを名残惜しむ様におもむろに飲み込んだ。
胃の中に流し込まれる茶の湯が発する僅かな残り香が、鼻の奥に逆流して立ち昇り、明日見の繊細な嗅覚を体の内部から軽やかに刺激する様が、また堪らなく心地好い。
「どうだい? 私の特製香草茶の味は」
「えぇ、とても美味しいです。でも、香草なんて貴重品を、お茶にして頂くとは、思いもよりませんでした」
「あぁ…それは私が庭先で栽培しているものだから、必要になったらすぐに摘み取ってこれるんだよ」
「香草を育てているのですか?」
「こう見えても、私はこの界隈ではちょっとばかり名の知れた薬草師だからね」
自分のイメージする薬草師と、目の前の少々小柄だがふくよかで人懐っこいお婆さんのイメージが噛み合わずに、明日見は唖然として思わず首を傾げてしまった。
薬草師とは、薬効成分を含有する草花や木の皮などの、薬の原材料となる植物(場合によっては動物や鉱物が使われる事もある)――いわゆる薬草を、医師に代わって採取し、薬に調合する為の知識と技術に精通した、いわば薬草の専門家を指す。
かつて、医術の発達が未熟であった時代には、医師が患者の診察から薬の調合までを通して行なっていたが、薬草の採取には得てして長大な時間と手間が掛かってしまうものである。
だからといって、必要とする薬草を入手するまでの間、既に病魔に冒された患者の病気の進行を遅らせる有効な手立てもない。
幾ら病気の治療に薬草が不可欠といっても、薬草の採取に時間を取られて、その分患者の診察時間が削られるというのでは、医術の基本な考え方からすれば本末転倒も甚だしい。
そこで、患者に医術を施す医師と、医術に不可欠な薬草の採取から薬の調合までを一手に引き受ける薬草師とで役割を分担し、共に車の両輪となって医術を支えていこう…この様な発想を原点として生まれた薬草師と呼ばれる職業は、基本的にペアとなる医師との提携関係によって成り立っていた。
そして、薬草師の能力は、薬草の種類や含有成分、薬としての効能に関する広範な知識と共に、薬草の生息地に関する情報、更には、一般の人々が滅多に訪れる機会のない人外の魔境にさえ、薬草の採取の為には臆せず赴く為の、強靭な肉体と精神を兼ね備える事が最低限の条件といわれていた。
それ故に、明日見には目の前の老婆が薬草師である…というイメージの乖離をどう処理してよいのか分からずに、なんとも反応の仕様がなかったのだ。
「おばあさんは、薬草師なのですか?」
明日見は、戸惑いつつも辛うじてそれだけの言葉を吐き出したが、老婆の方は明日見の反応など既に折込積み…もしくは全く気に留める様子もなく、実に淡々と明日見に応える。
「今はさすがに引退して、この近辺でも取れる薬草を時々採取して、簡単な血止めや痛み止め、熱冷ましなんかを調合して、近所の希望者に分けているだけだけれどもね。それで、あんたが来た時にも、またご近所さんが薬を求めてきたのかと思ったんだよ」
薬草師ならば、香草の扱いにも精通している筈だから、庭先で香草を育てていても何の不思議もない…明日見はそこでようやく老婆が惜しげもなく香草茶を持て成してくれる理由には納得したが、それでも目の前の老婆と一般的な薬草師のイメージとは余りにもかけ離れて見えた。
一方、老婆は明日見の顔をしげしげと興味深げに見つめ、それからおもむろに呟いた。
「ふぅん、いい目をしているね。お前さん…」
「明日見です」
「明日見さんと言うのかい。私は連雀(れんじゃく)だよ。近所では『薬草師の連婆さん』なんて呼ばれているね。この年になれば仕方がないのかもしれないけれども、私は『婆さん』なんて呼ばれる程老いさらばえた覚えは毛頭ありはしないのだけどね」
「ごめんなさい」
明日見は、先程自分が連雀を『お婆さん』と呼んだ事を思い出して、『きっと気にしているに違いない』と慌てて頭を下げる。
しかし、連雀の方は明日見にいきなり頭を下げられて『何事か?』と訳の分からぬ様子だったが、直ぐに明日見の意図を察したのか、やけに子供っぽい笑みを零した。
「そういう事かい…いや、気にしないでおくれ。これはただ単に自分が老け込まない為のまじないみたいなものなのだから」
…そうは言われても、きっと内心では気にしているのだろう…と明日見が恐縮していると、連雀も場の雰囲気を感じ取ったのか、ふと話題を変えてきた。
「ところで、女の一人旅とは珍しいね。しかも、明日見さんはまだ随分お若いだろうに。首都へでも行くのかい?」
「当面は、州境の杵柄(きねづか)町まで」
「ふぅん。商いか何かかい?」
「いえ…」
興味深げに詮索する連雀の視線に晒されて、明日見は話してよいものやら一瞬戸惑ったが、自分が過州東端の東辺(とうべ)町でならず者達に拉致され、偶然の成り行きから途中の野平(のひら)町で孤児の少年達に救出された事、しかし執拗なならず者達の追跡の犠牲となって、今度は孤児の少女が人質に囚われてしまった事、明日見は少女を救出する為に、ならず者を追って杵柄町へ向かう途上である事を掻い摘んで説明した。
老婆は無言のまま、時々小さく頷きながら明日見の話に耳を傾けていたが、明日見が一頻り話し終えてしまうのを待って、少し考え込んだ風に口を開いた。
「それはまた、随分と厄介な相手に関わっちまった様だね。でも、幾らその女の子を救出する為とはいえ、明日見さん一人で立ち向かうのは少々無謀ってモノじゃないのかねぇ」
「でも、私には武闘術の心得がありますから、その辺のならず者達や、事によっては治安部隊にだって滅多に引けを取る事はないつもりです。それに、世話になった孤児の少年達の為にも、逢蘭(ほうらん)はどうしても救出しなくてはいけないんです」
「そうかい…。女だてらに武術を嗜むとは、明日見さんは只者じゃあなさそうだね。まぁ、余り深く詮索されたくはないみたいだし、私にとっては茶飲み友達との雑談の話題程度の関心しかないのだから、これ以上事細かく詮索する気はないよ。それに、私が見るところ、明日見さんはそれなりに旅慣れている様でもあるから、今更私が言うまでもないのだろう。ただし、幾ら武術に長けていても過信は禁物だよ。良く分かっているのだろうけど、それだけは忠告させておくれ」
「ありがとうございます。改めて肝に銘じます」
「うん。それでいい。だったら、この空模様では今日一杯は雨も止みそうにないし、久しぶりに賑やかな食卓を囲むのも楽しみだから、腕によりをかけて料理を作るかねぇ。後で明日見さんにも手伝ってもらって簡易寝台も作るから、今夜は泊まって行くといい」
「でも、突然お邪魔してしまって、宿まで…よろしいのですか?」
「あはは、既にこうやって家に上がりこんで寛いでいるのだから、今更下手な遠慮は無しだよ。私だって、たまには話し相手と下らない話しでもしながら、賑やかな夕食のひと時を楽しみたいのだからね」