白い靄に覆われていた朧気な視界が、徐々にはっきりと輪郭を帯びてゆく。
そこは石積みの建物の一画だろうか。
背後から複数の騒がしい喚き声が木霊し、ピリピリと張り詰めた緊張感に包まれたその場の空気は、一目で尋常ならざる事態に置かれている事を感じさせた。
「お館様、我が軍も必死の防戦に努めておりますが、残念ながら城門の決壊も最早時間の問題かと思われます」
全身を皮鎧で固めた男が、『お館様』と呼ばれた平服の男を直視している。
『お館様』の表情は決して優れなかったが、この様な事態の到来を既に半ば予想し、覚悟も決めていたと思われ、あっさりし過ぎている位の潔さが逆に不気味であった。
「うむ。もとより覚悟を決めていたとはいえ、この様な形になってしまったのも、私の不徳の致す所だ。済まぬ」
「何をおっしゃいます、お館様。私共を始め、お館様に付き従ってこの城に残る全ての者は、息の続く限りお館様の盾となって、最後までご奉公申し上げる事を心に刻んでおります」
「本来ならば、そなた等はこの様な形でむざむざ命を落とす事無く、後の世を築く為に生き延びて貰いたかったのだが……」
「いえ、お館様がおられるからこその我々なのですから、その様なお気遣いは無用に願います。むしろ、今でしたら時間はございますので、是非お館様だけでも落ち延びて頂ければ……」
「それではこの戦は収まらぬ。仮にこの城が落ちたとして、私の骸を見つけぬ限りは追跡の手は緩まぬのだからな」
「ところで、例の手配は進めていただいているのでしょうか?」
二人の会話に割って入ったのは、『お館様』と呼ばれる男に寄り添う様にしている、おそらく奥方と思われる女性だ。
穏やかで慎ましく控えめな中にも、凛とした芯の強さを感じさせる女性は、物静かだがはっきりとした口調で問いかける。
「はい。敵兵力が最も城に集中する頃合いを見計らって、実行に移す予定となっております。少々危険な賭けとはなりますが、落ち延びるのでしたら戦の混乱に紛れた方が目立つまいと……」
「さようでありますか。我々はともかくとしても、あの子達だけには無事に落ち延びて貰って、後の世に希望を繋いでもらいたいのです。くれぐれもお守りいただくよう、切にお願いいたします」
「勿体なきお言葉、しかと承知いたしました。御子様方のお命は、私がこの身を盾としてでも、必ずやお守りいたします」
皮鎧の男が静かに部屋を辞し、人の往来で騒然と沸きかえっている石畳の通路をすり抜けてゆく。
そして次に向かった場所もまた、一面が石積みの、これと言った調度品も置かれていない殺風景な部屋であった。
その部屋には、精々十歳になるかならぬかと言った頃合いの、年端も行かぬ少年と少女が、いかにも押し着せといった高級な絹の着物を身に纏っていた。
「おぉ、よく似合っている。その様子ならば、影としてのお努めも立派に果たせよう」
「はい。お褒めいただいて、ありがとうございます」
答える少年の顔は、自分が仰せつかった重大なお役目ゆえの緊張からか、どこか引きつった不自然な笑みを漏らしていた。
「うむ。この度は、そなた達の働き如何では御子様方のお命に関わると肝に銘じて、心してお努めを果たされよ」
「この身に代えましても、御子様の影としてのお役目、しっかりと努めさせていただきます」
皮鎧の男は二人の子供に軽く会釈すると、再び何処かへ向けて廊下をすり抜ける。
慌しく兵士の行き交う階段を下って、先程より一つ下の階にある、やはり殺風景な石積みの部屋へ向かう。
石畳の廊下に木霊する兵士達の声に耳を傾けると、かねてより予想されていたとはいえ、やはり苦境に陥っているであろう現在の戦況が窺える。
もとより多勢に無勢では抗う術とて限られているのだが、それにしても少々脆過ぎるようだ。
急がなくてはなるまい。
皮鎧の男は、いつの間にか小走りのまま、目的の部屋へ滑り込んだ。
明かり取りの小窓一つない薄暗い部屋の中には、十歳になるかならないかといった頃合の少年と少女が、親子ほど年の離れているであろう小間使いの女から身なりを整えられている所だった。
「おぉ、その装束でしたら、万が一にも素性が露見する心配もございますまい。見るからに庶民の少年少女ですな」
「そうかなぁ…」
「似合っている?」
「あはは。よく似合っておりますとも。もちろん、姫様でしたらどの様なお召し物でもよくお似合いだと思いますがね」
「そんなぁ…」
少女が心なしか頬を赤らめて俯く。
照れているのだろうか。
「ところで、父様と母様は一緒じゃないの?」
今度は少年が少々怪訝な表情を浮かべて尋ねてくる。
「えぇ、もう少しの間、大切な御用をされなくてはならないのだそうです。ですが、大丈夫。すぐに後を追ってこられますとも」
嘘に決まっている。
お館様も奥方様も、既に行く末の定まったこの城と運命を共にする覚悟を固めておられるのだ。
しかし、この様にでも言わなければ、このお子達が自分だけで落ち延びる事には、素直に承諾する筈もあるまい。
そして、このお子達だけでも落ち延びて命永らえる様に計らうのは、我が主君であるお館様と奥方様の命令であり、達ての願いでもあるのだ。
これ程切羽詰った時に、たとえ悪意欠片すらなくとも、じきに困惑と悲嘆と絶望を誘うであろう嘘偽りを弄して、何も知らぬお子達を欺くのは不本意ではあるが、主命を全うする為には致し方あるまい。
ーー城門が破られた!
暖かみの欠ける石積みの通路に、突如兵士の声が響いた。
時機を見誤ったのだろうか?
多分、もう少し早く動き出すべきだったのだろう。
それにしても、城門の守備兵は脆過ぎるようだ。
いや、今はその様な己の判断の誤りについて自問している場合ではない。
私は御子様方の身の安全が保証される場所に辿りつくまで、御身を守護するという大切な責務を負っているのだ。
今は余計な事に気を取られて、無駄に意識を散じている余裕はない筈だ。
御子様方が無事に落ち延びてからでも、些細な後悔に当てる時間は幾らでも出来るのだ。
「では、念の為に再度申し上げておきます。あなた方には、今この時を持って一般庶民の子となっていただきます」
「うん、分かっているよ。僕が○○で…」
「私が△△ね」
「そうです。これより先、もし敵兵に捕縛された場合はその様にお答えなさい。決して本名を漏らしてはなりませぬ。それから、これ以降、私もあなた方を庶民の子として扱いますので、無礼などとなじられぬ様に重ねてお願い申し上げます」
「うん。それも慣れる様に努力する」
「では、これから地下へ参ります。○○、△△、遅れない様に私についてこい!」
皮鎧の男は、目の前の子供達に対して突如態度を翻して荒々しく檄を飛ばすと、小走りに石積みの部屋を飛び出した。
一瞬、皮鎧の男の余りに唐突な態度の変貌に、思わず呆気にとられて口を半開きのまま呆然としてしまった子供達だが、傍らの小間使いの女に促されて我を取り戻すと、慌てて男の後を追った。
城門が破られた影響なのか、石畳の通路は右往左往する人の波でごった返していた。
敵は城門を潜って一階から攻め上ってくるのだから、ここからだとわざわざ敵に向かって突っ込んでいく格好になる。
しかし、地下へ潜らなくては、この乱戦のさ中に落ち延びる事は不可能なのだから、敵に遭遇するリスクを冒してでも地下階層に到達しなくてはならない。
まだ年端も行かぬ子供たちは、ただでさえ狭い通路を混乱状態のまま右往左往する兵士群の隙間を縫って、何とか第一階層に辿りついた。
そこは既に血生臭い戦場と化していて、そこかしこから剣の刃を合わせるゾッとしない金属音や、戦闘に破れて傷つき倒れる兵士の断末魔の叫び声、他方敵兵を葬った興奮から奇声とも取れる閧の声を上げる兵士たち。
その背後からも続々と押し寄せる侵略軍の兵士の足音、その中に、戦場には似合わぬか弱き女の痛々しい悲鳴が時折混ざる、そんな、この世の地獄とも見紛う戦場の真っ只中を、二人の子供は地下階層へと通じる階段へ向けてひた走った。
階段の入り口には、既に皮鎧の男が子供達を待ち伏せていた。
剣を右手に半ば焦れていたと言った風の男は、すかさず左手のランプを少年に手渡すと、先に行く様にと視線で促した。
「さぁ、急ぐんだ!」
男の鋭い叱咤に背中を強く押されながら、二人の子供は迷いもなく地下階層へ繋がる階段を下っていく。
一人前の大人と比べれば体力差は著しく、しかもほんの石壁一枚隔てた向こう側では、今まさに剣の刃が重ねられていた戦場の中を、殆ど全力疾走で駆け抜けてきたのだ。
二人とも既に足元は覚束なくなっており、時折足が支えて倒れそうになりながらも、何とか気力だけで地下へ地下へと足を運んでいた。
城砦の地下と言えば、一つや二つの抜け道が隠匿されている事が常だった。
城の主自身が死地を脱出する為、あるいは、主が『落ち延びてもらいたい』と願う者が、密かに戦場を離れる為に、その通路は作られる。
しかし、実際に使用される機会は殆どないといってよい。
その道が使われる時は明らかに敗色濃厚であり、仮に命永らえたとしても、二度と再び城の主として凱旋する事は叶わぬだろうからだ。
そして、時折つんのめりながらも地下深くへと潜って行く二人の子供にとっても、この行程は後戻りの利かないたった一度きりの決死行だった。
もちろん、秘密の抜け穴を通じて戦場を遥かに離れて、彼らの顔も名も知る者のない土地に紛れない限りは、常に追手が差し伸べられる危険があったし、遥か故郷を離れた辺境の片田舎に身を隠したとしても、決して安全とは言い難かった。
当面の戦場を抜けだせれば、それで終わる旅ではないのだ。
しかし、息も絶え絶えに、ただ前へ、前へ、地の奥底へと機械的に足を運ぶ、まだ年端も行かぬ子供達にとって、それは想像もつかぬ未来の光景だった。
その生まれの不幸ゆえに、些かの落ち度もなく健やかに成長していた二粒の真珠は、この世界をありのままに動かす力を持った傲慢な支配者の気紛れによって、遥か地の果てまでも罪人の様に追い立てられてゆくのだ。
二人の子供の背後に付ける皮鎧の男は、目の前を行く子供達の小さくか弱い体にとっては、余りに過酷で哀れな人生の行く末に思いを馳せて、密かに一人憂えんだ。
許される事ならば、その呪わしき運命を身代わりに引き受けても構わないとさえ思った。
遥か大地の奥深くに、沈黙の闇を友として永久に横臥するといわれる伝説の黄泉路の国には、人の魂を食らう魔物が無数に存在するのだそうだ。
その魔物は、ただ人の魂を食らうのではなくて、その者の願いを叶える代償として、自らの魂を申し受けるのだという。
そして、魔物に魂を食われた者は、自らも黄泉路へ下って魔物と化し、悠久の時に渡って地下の永久牢獄に繋がれるらしい。
無論、その様な邪まな思いは微塵も抱きはしないが、皮鎧の男は、時折そういった厭うべき手段によっても自らの宿願を果たさんとする者の気持ちが、今ならば少しだけ分かる様な気がした。
もし目の前の子供達が、自分の血を分けた息子娘であったら、もし生涯添い遂げる事を誓い合った恋人であったなら、あるいはその様な忌まわしき誘惑にも屈していたかもしれないと思う。
それは結局、誰にとっても好ましくない結末を迎えるのだが、切羽詰った状況で正常な判断力を奪われてしまえば、その様な闇の住人の怪しくも甘美な誘いの言葉に乗せられる事もあるのだろう。
だが……。
ーー俺一人でどこまで出来るのかはわからないが、この剣一本で出来る限りの事をするまでだ。
男は手にした剣の柄を、更に力を込めてきつく握りなおした。
幾ら目の前の子供達に哀れみを掛けても、所詮は忠誠を誓う我が主の子というに過ぎない。
自らが直接剣の誓いを捧げた相手ではないのだ。
それに、男が子供達にしてやれるのは、精々がこの戦場を無事に落ち延びる手引きをして、更に可能であれば当面身を隠す為の仮の住処をあてがってやる位である。
そこまで辿り着ければ上出来だが、この城を生きて自分の足で這い出る事さえ危ぶまれる現状では、自らの身を盾にしてもなお、子供達だけは城外へ抜け出る手配を固められるかどうかさえ判然としない。
だが、とにかく子供達を隠し通路に送り出してしまえば、主に対する自分の最低限の義務は果たされる。
それ以降は、子供達自身が、自らの腕と才覚で己の運命を切り開いて行くしかないのだ。
既に三人は、地下牢として使用されていた地下第三階層、第四階層をも通過し、更にその下を目指していた。
これより下の階層は、普段は使用されていない、まさに地下の抜け道へ到るだけの為に存在する領域である。
ーーカツカツカツカツ……。
無数の靴音が背後に響いている。
多分、今頃地上階層では数で圧倒的に勝る侵攻軍が呆気なく城砦を制圧し、望みなき最後の抵抗を試みる守備軍残党に対して容赦ない掃討作戦を展開しているさなかなのだろう。
「○○、△△、この先はお前達二人で行くのだ」
「えぇっ!」
地下第五階層へと通じる階段の手前で、皮鎧の男がそう言って立ち止まると、二人の子供の足もはたと停止し、思わず驚きと戸惑いの入り混じった声を上げて振り返る。
「止まるんじゃない。私の使命は、お前達を無事にこの城から脱出させる事なのだからな」
「でも……」
「敵兵の足音が近づいているのか聞こえないのか? このままでは奴らに追いつかれる。私がここで奴らの足を止めるから、その隙に抜け穴へ逃げ込め。ちゃんと入口は元に戻しておくんだぞ」
「そんな事言われたって、僕達だけで逃げられる訳ないよ」
「そんな甘ったれた気持ちじゃぁ、無事に城を抜け出せたとしても、すぐにも町で無法者どもの餌食になってしまうぞ」
皮鎧の男は、自分で言っているにも関わらず、年端も行かぬ子供達に対して、しかもこれまで地方領主の子として、何不自由なく恵まれた生活を送ってきた子供に対して、随分と残酷な言い方だと内心後悔の念が沸いた。
しかし、何をいおうが、まずこの子達の逃走を成功に導かなければ、全てが無為になってしまうのだ。
「でも……」
「お前達子供の足では逃げ切れぬし、このまま同道しても足手纏いになるだけだ。だからお前たちは先に逃げろ。私一人ならどうとでもやり過ごせるし、追いかけてくる奴らを仕留めたら、すぐに後を追う」
「そんな……」
「時間がないんだ、さっさと行け!」
皮鎧の男が、二人の子供の背中をポンッと軽く叩くと、二人とも弾かれた様に再び足を踏み出し、そのまま二度と振り返らずに階下の闇の奥へと消えていった。
ーーよし、それでいい。
彼らにとっては唯一の光源だった、少年の手にするランプの灯りも今はなく、皮鎧の男は一人濃密な闇に包まれた石積みの通路の一角で、既に間近に迫っているであろう追跡者の到来を待ち構えていた。
鋭く睨みつける視線は、複数の足音が響く一点にのみ集中し、改めて剣の柄をギリギリと力を込めて握りなおした。
子供達にはあのように言ったが、後を追う気など毛頭なかった。
いや、追っ手の攻撃を退けて子供達の後を追うなど、今の自分には不可能に思えた。
だからこそ、この場で骨を埋める覚悟も決めたのだ。
「つい先日まで牢獄として使われていた地下の一室で命果てるとは、いかにも私の人生を象徴しているようでおあつらえ向きかも知れないな」
一旦自らの死を覚悟してしまうと、この様な状況においても趣味の悪い冗談が吐けるのだな……男は一人闇の中で音もなく薄ら笑いを浮かべながら、刻一刻と接近しつつある追跡者の到来を待ちつつ、子供達が無事にこの戦場を落ち延びてくれる事を祈った。
今やこの上の階層で命のあるなしも知れない主から、彼らにとっては最も大切な、血を分けた二粒の愛し子の警護を託されたのだ。
身分も町人上がりの一兵士に過ぎぬ自分に対して、主……『お館様』はかくも厚い信頼を賜ったのだ。
それは主に仕える家臣としては極めて名誉な事であったけれども、この様な形で主命を中途半端に放棄しなくてはならない現状が、逆に心苦しくもあった。
そして、姫様……、私はかねてよりあなた様をお慕い申し上げておりました。
身分違いの見果てぬ夢とはいえ、私にとってのあなた様は、全ての影を明るく照らし出す、明けの日輪そのものだったのです。
あなた様が丸賀のお館様の元へ輿入れなされる時、近習の一人として私がつき従うと決まった折には、天にも舞う様な気持ちでありました。
私はあなた様の近習として仕えさせて頂くだけで、大変幸せなひと時を過ごさせていただいたのです。
この思いを、あなた様に直接お伝えする事は遂に叶いませんでしたが、あなた様の最も大切な二粒の真珠を私に委ねて下さるほどに、強くご信頼頂けたのですから、これ以上を望むのは欲張りというものでしょう。
願わくば、あなた様自身をお救いしたかったのですが、私どもの様な力も才覚も劣る下賎な者一人の身では、どの様な手の施しようもなかったのです。
そして、私はあなた様に強くご信頼頂いたにも拘らず、あなた様の大切な二粒の真珠を最後までお守りする事が叶いません。
私にとっては、それだけが心残りです。
ですが、せめて、あなた様の大切な御子達が無事にこの血生臭い戦場を逃げおおせる様に、私はこの身を盾として最後のご奉公を申し上げます。
皮鎧の男の視界に、ちらちらと漂う複数のランプの灯りが目に入った。
ーーこの一太刀で一体何人の追跡者を足止めできるか、やってみるまで!
「うおおおぉぉ!」
男は突如唸り声を上げると、ここと定めた闇の一点に向けて、自らの剣を渾身の力を込めて叩き込んだ。