まるで、明日見が声を掛けるのを心待ちにしていた…とでも言う様に、闇の中に突如白い靄が現れて見る間に凝集し、かと思うと妖しげな青白い光を放ちながら膨張し、その中から白塗りの能面の様な爺の顔が出現した。
いかにも慌てているといった風に、実体化する過程を明日見の目前に晒す、物の怪の珍しい光景を見るに付け、直前まで何か別のものに気を取られていて出現のタイミングを逸しそうになったという、普段の物の怪らしからぬ手際の悪さが、明日見には気になっていた。
「罠に嵌めるとは人聞きの悪い…これまで粉骨砕身おぬしの為に尽くして来て、散々貴重な情報の数々を惜しげもなく提供し続けてきたこのわしに向かって、よくもその様な大口が叩けるものだわい」
しかし、相変わらずの惚けた素振りを一見装いつつ、実は内心抜け目なく明日見を罠に陥れようと虎視眈々と機を窺っている…いつも通りの物の怪に相違なかった。
それはそれで鬱陶しくはあったが、相変わらずの惚け振りを晒してくれた方が、慣れているだけに返って扱いやすい…明日見は内心軽く溜息を漏らすと、物の怪に負けじと口を開く。
「その押し付けがましさが、お前の物の怪たる所以だと言う事にまだ気がつかぬのか。情報を提供するといっても、全てお前が私を都合よく操ろうと画策するが故の餌のような物でしかないし、第一、これまでお前が一度として役に立つ情報を提供したとでも思っているのか? 単独ではどうにも判断の付かない情報の断片だけを、いかにももったいぶって提供されても、情報の核心部分は全て自分で掻き集めなければならなかったのだから、結局お前のもたらした情報とやらは全て役立たずに終わったのが実態ではないのか?」
「のぅ、明日見よ。おぬしも、少し見ない間に一段と意地が悪くなったのう。どこでその様な意地の悪さを身に着けたのかは知らぬが、その歪んだ心根を改めねば、誰もが羨む良き乙女へは成長できぬぞ」
これまでにも何度となく繰り返し聞いてきた物の怪の軽口には、いい加減慣れたと思っていた明日見だったが、やはりこうして直に聞くと、俄かに耐え難い嫌悪感と苛立ちが込み上げて来る。
「少なくとも、お前が羨む者になるつもりはないから安心するのだな。とにかく、これから一人片付けねばならないのだから、お前の下らぬ世迷言の相手はその後だ。先客を片付けるまで大人しく引っ込んでいてくれぬか」
「そういわずに、少しは、年寄りの豊富な経験に裏打ちされた含蓄のある助言に、片時でも耳を傾ける位の心の余裕は持つものぞ」
「だから、お前の世迷言は後で聞いてやるといっているではないか。お前こそ少しは『聞き分ける』素直さを学んだらどうなのだ?」
「この老体に向かって説教を垂れるとは、随分と偉くなったものよのう。しかしの、そうやって何でも知った気になって思い上がっている時にこそ、得てして予想も付かぬ所から忍び寄って来た罠に、いとも容易く嵌ってしまうものと知るが良い」
「そうやって、一見尤もな言葉を並べ立てて、何とか私を誤魔化して罠に嵌めようと言うのが、これまでのお前の手口だろう? 残念ながら、私もそう何度も同じ手に引っ掛かる程愚かな人間ではないのだから、そう簡単に嵌められて堪るものか!」
明日見は、耐え難い嫌悪感の処置に苦慮しつつも、久々の物の怪との対面にも少しは慣れて来て、『自分をここまで苛立たせるのも結構な才能だ』などと、冷静に状況を観察出来る程の精神的余裕を取り戻しつつあった。
「ぬぉ! 何と酷い物言いじゃ。おぬしがそれ程性格の歪んだ恩知らずとは思わなんだ。禿しく幻滅じゃよ」
「それなら、今すぐにでも私に粘着するのを諦めて、さっさと自分の住処へ戻ったらどうだ。私にはそれが一番望ましいが、それでも粘着を諦めぬと言うのなら、せめて今は大人しく黙っておれぬのか」
「これだから、物の道理の分からぬ者は困るのじゃ。えぇい、ここは危険なのじゃよ。だから、何の準備もせぬまま無防備な状態で突入しないで、一旦引き下がって装備を整えるべきじゃと警告しておるのじゃよ」
「危険は予め承知の上だ。元々ここはお前の同族が出没すると以前から言われていたのだし、盗人や山賊のアジトとして使われた過去もある様だから、今この城に潜入しているもう一人の先客はそういう類いの連中かも知れぬ。しかし、相手がたった一人ならば、私がそう簡単にやられる筈がないというのは、お前も良く知っているだろう」
「同族とはまた失敬な。ここに巣食っておる奴は断じてわしの同族などではないぞ。それだけは明らかにしておかなくてはならぬ。それに、おぬしが先客と呼ぶ奴についても、盗人や山賊といった類いとは全く異なる輩なのじゃ。それ故に、一旦退却して出直せと…」
今日の物の怪は、やはりこれまでとはどこかが違う…何と言うか、余裕がない…というか、切羽詰っているというか…何とも言えぬ違和感を感じたのだ。
「ふうん…何だかよく分からない話ね。今までお前が私を気遣った事などただの一度だってなかったのに、何故今になって…」
「そんな事はないぞ。わしはこれまでも常におぬしの身を案じて来たではないか。その気持ちはこれまでも、今も、そしてこれからも聊かなりとも変わるものではないぞ」
「いや…今日のお前は何だか変ね。もしかして、本当に怯えているのではないでしょうね?」
先程から物の怪の纏う朧な光の輪が、心なしか震えている様に見えたし、物の怪の発する声も普段とは微妙に異なって、緊張の余り声が上ずっている様な気がしたのだ。
「いや、その様な事がある筈がないではないか。このわしが廃墟の主を前にして怯えておる等と、戯けた事を申すでない。いかに明日見といえども、このわしを愚弄するのも大概にせよ」
「そう…だったら、先客の方がお前にとって都合の悪い人物だって事もありうるかもしれない。私にはまだ良く分からないけれども、お前にとってはどうしても会いたくない事情があるとか…」
「これ、このわしが、たかが一人の人間如きを恐れて怯えておるとでも申すのかおぬしは。幾ら普段のわしが善良で大人しい、人畜無害のただの爺だからといって、余りに愚弄が酷いと許さぬぞ」
こうやってムキになる物の怪の姿を、明日見はこれまでに余り見た記憶がなかった。
だからこそ、物の怪のそういった普段とは違う不自然さに、益々関心が向かうのだ。
「ふぅん。それなら、私がこれから先客を捕らえようが、この廃墟の主を探して探索を続けようが、お前にとっては何の問題もないでしょう? お前の下らない戯言だって後でちゃんと聞いてやるといっているのだから、今は大人しく引っ込んでいなさい」
「うぬぬ…物事の道理の分からぬ跳ねっ返り娘はこれだから困るのじゃ。おぬしは以前、例のならず者の店に忍び込む時にしても、よく調べもせずに無鉄砲さが祟って捕らえられたではないか」
明日見は、突然繰り出された物の怪の予期せぬ指摘に、一瞬かつての嫌な記憶が首を擡げて顔を顰めたが、『それでは物の怪のペースに嵌ってしまう』と、脳裏に広がりかけた記憶の断片を強引に拭い取った。
「でも、お前はその時だって、事前に警告なんて真似はしなかったし、後からノコノコ顔を出しては、拘束された私を見て嘲って楽しんでいただけではないか」
「うぬぬ…わしはのぅ…その気持ちは充分過ぎる程あったのじゃが、いざおぬしを目の前にすると、照れてしまって思いのままに喋れぬのじゃ。口下手じゃからの」
「お前が口下手とは笑わせる。これまで散々私を惑わす戯言を並べ立てておきながら、よくもしれっと言い切るものだ。なるほど、お前にとっては、私が先客と会う事が余程都合の悪い事態なのだろうな」
「これだけ言ってまだ分からぬのか? わしがたった一人の人間如きに恐れ戦く理由がどこにあるというのじゃ?」
と、口先では気の強いセリフを吐きつつも、物の怪には珍しい内心の動揺が、明日見にも手に取る様に激しく伝わってくる。
「それなら、この廃墟の主が怖いのだと言う事でもよい。いずれにしても、これから私は両方の正体を暴くつもりなのだから」
「だから、それはおぬしにとっては…」
明日見は、そろそろ物の怪との不毛な会話を打ち切るべきだと感じていた。
こうしている間にも、先客がどの様に動いているのかは分からないのだから、一刻も早く探索を再開するべきだ。
「しつこいぞ。後でお前の相手はゆっくりしてやると言っているのだから、今は大人しく引っ込んで様子を見ていたらどうだ」
「何と聞き分けの悪い女子じゃ…。その様に何者に対しても単純に猪突猛進しか出来ぬようでは、いずれ命を落とす破目になると繰り返し警告しておるのが、まだ分からぬのか」
「何をまた、下らぬ戯言を恩着せがましく並べ立てて…。そんなに私にこの廃墟から離れてもらいたければ、礼を正して懇願してみたらどうだ。そうしたら、この廃墟を一通り捜索してからなら考えてやらないでもない」
「それでは童が不条理な要求を通す為に駄々を捏ねるのと一緒ではないか。わしはおぬしがそれ程捻くれた女子だったとはついぞ知らなかったわい。わしの見立て違いだったかのぅ」
「駄々を捏ねているのはお前ではないのか? その様な奥歯に物が挟まった様な物言いで簡単に人を騙せるなどとは、お前にしては随分と甘いのではないか。そんなに私が思い通りに動かない事が気に入らないなら、いい加減に私に粘着するのを諦めて、お前の住処へ戻ればよいではないか」
「全く、ああいえばこうと、おぬしも扱い難くなったものよ。これも思春期特有の精神不安定状態が生み出した反発心の表れと解すれば、致し方ないのであろうな」
「お前はさっきから何を訳の分からぬ御託を並べ立てているのだ? これ以上お前の戯言に貴重な時間を費やす訳には行かぬ。さっさと消え失せよ」
半ば苛立ち混じりに、明日見は物の怪との会話を一方的に打ち切って、再び薄暗い通路の先に眼を凝らしつつ、慎重に第一歩を踏み出した。
「そう慌てずに、もう少しわしの話に耳を傾ける余裕を持たぬか…」
物の怪はいうなり、明日見の行く手を遮るように、瞬間的に明日見の目の前に移動した。
「しつこいぞ! 邪魔をするな!」
思わず声を荒げて、明日見は目の前の物の怪に向かって鋭く手刀を叩き込んだが、一瞬早く物の怪の姿は跡形もなく消失し、右手は音もなく薄闇を真っ二つに切り裂いたまま虚しく空を切った。
――しまった。
反射的とはいえ、思わず声を荒げてしまった事を後悔したが、既に起きてしまった事を後から嘆いても、それで元通りの状態に戻る程世の中は甘くはない。
きっと、一足先にこの廃墟に侵入している筈の見知らぬ先客も、今の明日見の叫び声を耳にしたに違いない。
しかも、相手は声の出所から、ある程度明日見の居場所を特定しているのだろう。
これまでは、先客に気付かれずに相手の隙を狙える立場にあった明日見が圧倒的に有利だったが、たった一つの些細な過ちから完全に立場が逆転してしまった。
この様な苦境に陥れられたのも、元はと言えば全て物の怪が突然目の前に現れて、明日見を少しでも足止めする為に下らぬ戯言を並べ立てていた事が原因である。
確かに思わず声を上げてしまった自分の非はあるが、そうなるそもそもの元凶は物の怪にあるのだ。
しかし、今更物の怪に責任を取れと迫っても聞き入れる筈もなく、降りかかる火の粉は結局明日見自身が払いのけなくてはならないのだ。
――こうなったらジタバタしても仕方がない。相手はこちらへ向かってくるのだろうから、逆に待ち伏せて返り討ちにしてしまおう。
明日見は、ちょうど曲がり角になっている通路の壁にピッタリと身を寄せ、息を潜めて迫り来る先客の気配を伺った。
しかし、相手も何者かの侵入を知って警戒しているのか、安易に近づいて来る気配は感じられない。
――まさか、反対側から回り込まれているなんて事は…
ふと、明日見の脳裏を嫌な予感が走り、ハッとして背後を振り返るが、背中越しに続く通路の先には朧な薄闇が被り、所々から淡い木漏れ日が壁の隙間を押し破って差し込むばかりだった。
通路沿いに幾つもの部屋が壁で仕切られている為、隠れる場所は少なくなかったが、呆気なく敵の接近を許してしまう程見通しは悪くない。
――もしかしたら、先客は全然別の階にいて、たまたま私の上げた声を聞き漏らしていたとか?
怪訝に思った明日見が、もう一度曲がり角の向こう側の様子を伺おうと、振り返って再び神経を集中させた時、突然闇の中から何者かの気配が飛び出して来た。